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このごろ「私はここでは自分を出していない」とか「これがほんとうの自分ではない」という類いの言葉をひんぱんに耳にする。
これだけ耳にする機会が多いのだから、ひょっとしてそれらの言葉はこの夏の流行語なのかと思いつつ。
これだけ耳にする機会が多いのだから、ひょっとしてそれらの言葉はこの夏の流行語なのかと思いつつ。
「自分を出していない」と告白することは「ほんとうのわたしを見て」という逆説的なサインなのだろうか。図らずも彼らの本音の片鱗を導き出してしまった僕の脳裏にはいくつかの疑問点が浮かびあがってくる。
何が彼らを束縛しているのか。
何にも束縛されなければ、彼らはのびやかに「ほんとうのわたし」を謳歌できるのだろうか。僕に言わせれば、その程度の束縛で自分を偽るぐらいなら君の器はしょせんその程度さ。君は僕の事を自由だとか個性的だとかいうけれど、君には僕と同じ逆風吹きすさぶ断崖に立つ覚悟があるのかい?
束縛されないことが自由じゃない。どんな束縛や理不尽の只中にあっても自分の中に譲れない掟を持つことがほんとうの自由なんだよ。「これがほんとうの自分ではない」というのならば、僕に自嘲気味にそんなセリフをたれる君の姿はマトリックスの世界の中に投影された虚像なのかい?
たとえば、職場では無表情で寡黙で何を考えているかわからないような人が匿名でブログを書き、昼間の顔とはまったく違う人格をウェブの中で形成していたとする。
その場合、その人にとっての「ほんとうのわたし」は後者にあたるのだろうか。
僕はそうは思わないな。どっちが本当の自分だなんてことはないよ。昼間のアンタも夜のアンタもどっちもアンタ自身だよ。
ほんとうもうそも、本音も建前も、ポジもネガも、ぜーんぶひっくるめて自分自身なんだよ。
「ほんとうのじぶん」を夢見ることはきみの勝手だけど、まずは現実の自分を見つめるところから始めないとね。じゃないといつまでも地団駄踏んでるだけさ。そこから一歩も前に進めないよ。
何が彼らを束縛しているのか。
何にも束縛されなければ、彼らはのびやかに「ほんとうのわたし」を謳歌できるのだろうか。僕に言わせれば、その程度の束縛で自分を偽るぐらいなら君の器はしょせんその程度さ。君は僕の事を自由だとか個性的だとかいうけれど、君には僕と同じ逆風吹きすさぶ断崖に立つ覚悟があるのかい?
束縛されないことが自由じゃない。どんな束縛や理不尽の只中にあっても自分の中に譲れない掟を持つことがほんとうの自由なんだよ。「これがほんとうの自分ではない」というのならば、僕に自嘲気味にそんなセリフをたれる君の姿はマトリックスの世界の中に投影された虚像なのかい?
たとえば、職場では無表情で寡黙で何を考えているかわからないような人が匿名でブログを書き、昼間の顔とはまったく違う人格をウェブの中で形成していたとする。
その場合、その人にとっての「ほんとうのわたし」は後者にあたるのだろうか。
僕はそうは思わないな。どっちが本当の自分だなんてことはないよ。昼間のアンタも夜のアンタもどっちもアンタ自身だよ。
ほんとうもうそも、本音も建前も、ポジもネガも、ぜーんぶひっくるめて自分自身なんだよ。
「ほんとうのじぶん」を夢見ることはきみの勝手だけど、まずは現実の自分を見つめるところから始めないとね。じゃないといつまでも地団駄踏んでるだけさ。そこから一歩も前に進めないよ。
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コメント
1. 叱咤激励されているのは私だろうかと思いつつ
こちらの記事の内容がそのまま当てはまる人もいるかとは思いますが、私の場合はそうじゃないです。せっかくなのでコメントします。
“所詮その程度”であることはまったくその通りの器ですが、「自分を出していない」と告白することが「ほんとうの私を見て」という逆説的なサインであるとは限らないです。
例えば私の場合、自分にとってすごく大切な人に対し、感情のままにベラベラしゃべりすぎてしまうと、相手にとってそれが重荷になるとわかっているので沈黙を通しています。
自分で重々納得した上で自分自身を押さえ込んでいます。けど、やはり疲れます。
そんなときに、芸人さんが画像のような青空を見上げながら幸せそうにしているのを見ると、つい「あなたはいいわよねえ~。」と言いたくなった次第です。
「自分を解放できない」と愚痴るのは、私の場合はここで息抜きにお茶をすすっているようなものです。
2. 無題
3. ロキさん江
この記事はほぼ無意識の状態でキーボードを叩いて出来上がってきたものですが、自分でもはっとするようなものが書きあがる時があります。
いちばん解らないのは自分自身なのかもしれません。
4. 奥平さん江
どんな環境に身を置いたとしても揺るがない自由の強さにはかなわないだろうなと思います。