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旅の途中

水平線の もっと向こうへ

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言論の自由
1998年7月18日
モンゴル・ホブド・エルデネさんのおうちにて記す

神戸から中国の天津までのフェリーで同室だった日本人のおじさんと19才のスイス人の旅人マーカスと一緒にフェリーのレストランで食事をしていた時に、おじさんはマーカスに対してこんな事を言った。
「キリスト教は人間だけの、自分だけの救いを求める宗教だ。それに対して日本の宗教は自然を大事にする宗教だ。だから、日本の宗教は世界で一番素晴らしいんだよ。」
自国の文化に誇りを持つ事が悪い事とは思わない。だが、それが唯一絶対だとする考え方はとても恐ろしい。
おじさんのこの言葉を聞いて、僕はモンゴルへ出発する直前に日本で見たテレビを思い出した。
その番組は、アドリア海に浮かぶ「言論の自由号」という名の船を追ったドキュメンタリーだった。その船は、ボスニア人、クロアチア人、セルビア人のジャーナリストが乗り込んでいるラジオ船だ。戦火の心配のない海の上から、旧ユーゴスラビアに向けてラジオ放送をしている。

「かつての旧ユーゴスラビアは他民族が共生する国だった。イスラム教徒がクリスマスを祝うことなどは、珍しい事ではなかった。一部の資本家や権力者が利益を求めて内戦を始めた」とスタッフのひとりが語った言葉が印象に残った。
平和の象徴だったオリンピックスタジアムは、今では戦死者の墓で埋めつくされている。
陸の上の放送局は、自分たちの民族のしていることは独立を勝ち取る為の聖なる行為であるとし、対立する民族へ対しての敵意をむき出しにする姿勢で、とても片寄った報道をしていた。それも、それぞれの民族が。

それは、第二次世界大戦時の日本の報道によく似ていた。このことは、日本とは状況が違うからしかたがないとか、昔の話だからというような一言で軽くかたずけてしまっていいというものでは断じてない。
現在の日本でも、同じことが起こっているのだ。

フェリーの案内所に、地球の歩き方やその他のガイドブックと共に神戸の事が載っている写真集があった。ページをくくると、そこには神戸市長の笹山の笑顔と共に「神戸は元気になりました」という日本語と英語と中国語の文字が躍っていた。いつも下町ばっかりうろついている僕なんかが行ったこともないような観光名所が百家争鳴だ。ほんとうの神戸を知っている人間がこれを見たらアホ臭くて笑ってしまうような内容の写真集だが、神戸を知らない人が人がこの写真集を見たら、これが神戸だと思うのだろう。

札幌で、とあるミュージシャンのライブを見に行った。
コマーシャルの仕事で異人街で演奏をしてきたと彼は言った。「神戸の街は、きれいになった」と彼が言った時僕はとっさにこう思った。
「異人街を観光して、三宮で旨いもん食って、それで神戸の何がわかる。わかったような口を聞くな。」
しかし僕はその怒りを心の内に納め、静かに彼にこう言った。
「僕がいつも付合っているおじいさんやおばあさんは明日食べるお米にも事欠くような暮らしをしています。足腰が弱ってトイレに行くのも一苦労です。そんな人たちは、とても異人街には行けません。」
彼は黙り込んだ。
僕もそれ以上、神戸のことについて話すのをやめた。

家も仕事場も震災で失った人は僕にこう言った。
「外から(神戸に)来た人たちは、震災を忘れるな」と言う。でも俺は忘れたい。あんなつらいことは早く忘れたい」と。

ラジオ船のジャーナリストたちは、事実に基づいた公平な報道を心がけた。それこそが内戦を終わらせるカギになると信じていたのだ。
ある男性ジャーナリストの奥さんはサラエボに住んでいる。彼女は医者なので、負傷者の絶えないサラエボから逃れるのは不可能だという。そのことを知った男性ジャーナリストは、甲板でひとり泣いていた。

言論の自由号は、EUからの援助が途絶え、港へ帰った。
彼らからのメッセージが日本に送られてきた。
「我々のジャーナリズム精神は永遠です」と。
僕は、彼の涙を忘れない。
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